筑波大学とスポーツの歴史
筑波大学は前身校からの長い歴史の中で,体育教育、スポーツの分野において数々の功績を残してきました。師範学校初代校長の嘉納治五郎先生に始まり、日本初のオリンピック出場選手,日本最多のメダル保持者や金メダリストを始めとする日本屈指のオリンピアンたち,など、筑波大学のスポーツにおける歴史と伝統を紹介します。
体操伝習所から高等師範学校、筑波大学へ
1872年 | 東京湯島に日本最初の官立師範学校「東京師範学校」設立 |
1878年10月 | 文部省、(官立)体操伝習所を設立 |
1885年12月 | 体操伝習所を東京師範学校の付属とする |
1886年4月 | 体操伝習所を廃止、東京師範学校を高等師範学校に校名変更し、「体操専修科」を設置 |
1893年9月 | 嘉納治五郎、高等師範学校校長に就任 |
1894年秋 | 大運動会開催、競走、フットボール、三人抜相撲、綱引、剣舞等20数種目の競技が行われる |
1896年3月 | 「運動会」設立、柔道部、撃剣銃槍部、弓技部、器械体操、相撲部、ローンテニス部、フートボール部など10部が存在 |
1898年 | お茶の水から池上本願寺までの健脚競走を実施、東京高等師範伝統の長距離競走の始まりとなる |
1901年5月 | 嘉納校長の呼びかけで寄合会と運動会を統合した「校友会」が結成、談話部会と運動部会に分かれ、運動部会には柔道部、撃剣及び銃槍部、弓技部、器械体操部、ローンテニス部、フートボール部、ベースボール部、ボート部、自転車部、角力部が設けられる |
1902年3月 | 高等師範学校を東京高等師範学校に校名変更 |
1902年 | 校友会運動部会に徒歩部、游泳部が設けられる |
1903年 | 『アッソシエーションフットボール』と題する本を出版 |
1904年 | 蹴球部、横浜で外人アマチュアクラブと対戦。游泳部師範中野次郎、高師泳法の教程を創始 |
1906年 | 游泳部寄宿舎が館山の北條に完成 |
1908年 | 柔道・剣道を全学生選択必修とする。 夏・秋の校内長距離走大会 全学生参加とする |
1909年5月 | 嘉納治五郎校長、IOC委員に就任 |
1912年7月 | 地歴科の金栗四三、初の日本代表として第5回オリンピック・ストックホルム大会に参加(マラソン) |
1915年2月 | 東京高等師範学校に体育科を設置 文科、理科のほかに特科として「体育科」が設置 |
1919年12月 | 大学への昇格運動の中、「宣揚歌」が作成され歌われる |
1920年 1月 | 嘉納治五郎校長退任(非常勤講師としては没するまで勤務) |
2月 | 金栗四三の呼びかけのもと、東京高等師範、早大、慶大、明大の四校で第1回箱根駅伝開催、東京高等師範が優勝 |
1921年2月 | 高等師範学校規程が改正され、「体育科」は本科となる |
1924年10月 | 文部省、体育研究所を代々木西原に設置 |
1929年 | 東京高等師範学校専攻科を改組して東京文理科大学開学、東京高等師範学校を東京文理科大学に附置 |
1941年3月 | 体育研究所を東京高等体育学校に改組 |
1944年4月 | 東京高等体育学校を東京体育専門学校に校名変更 |
1949年6月 | 東京文理科大学、東京高等師範学校、東京体育専門学校、東京農業教育専門学校の4校を統合して東京教育大学開学体育学部を代々木西原に設置(幡ヶ谷キャンパス) |
1973年10月 | 筑波大学開学 体育専門学群、体育センター設置 |
1974年4月 | 筑波大学1期生入学 |
2010年12月 | 嘉納治五郎生誕150年 |
2013年10月 | 筑波大学開学40周年 体操伝習所開設135周年 |
2015年2月 | 「体育科」創設100周年 |
気概と行動の教育者 嘉納治五郎先生の功績
嘉納治五郎先生は1860年12月に生まれ、東京帝国大学を卒業後、講道館柔道を創設しました。その後、高等師範学校・東京高等師範学校(後の東京教育大学・筑波大学)の校長を3期23年半にわたって務め、教育改革を行いつつ、日本の学校教育の充実、体育・スポーツの発展・そしてオリンピック・ムーブメントの推進に活躍しました。
2010年、嘉納治五郎先生の生誕150周年を迎えました。教育者として、国際人として、未来を見据えて行動した嘉納治五郎先生の有りかかた、世界における日本の役割を考える指針を与えてくれたことでしょう。
嘉納先生は伝統的な柔術を、合理的考えを取り入れて再編し、講道館柔道を1882年に創設しました。事実を観察する科学的な態度、正義感、公正さや謙虚さを身につけるとともに、修行で得たことを社会生活に生かしていくという人格の形成をめざしました。そして「勢力善用・自他共栄」の理念を提唱し、自ら世界各国を飛び回り、柔道の実践と理念の普及に努めたのでした。
今や柔道は、心身を鍛えるスポーツとして世界200カ国以上に広まり、創設者である嘉納先生の名は世界に知られています。
高等師範学校の校長になると、人に教えることを最大の喜びとする教育者育成のために、軍隊的な学生寮の規則を改正して学生に自由な気風を与えるとともに、課外活動の導入や留学生受け入れなど、当時においては画期的な教育改革を行いました。また師範学校の修業年限を大学と同じ年数に増やし、さらに当時の高等師範学校を文理科大学に昇格させる基礎をつくり、深い学識をもった教育者を育成しました。東京教育大学は、高い資質を備えた教育者や研究者を輩出してきたのでした。
日本で初めて他教科と同等の「体育科」を東京高等師範学校内に設置し(1915年)、学校教育における体育の位置づけを確立しました。また、校友会会長として、課外活動を奨励し、運動部や文化部の活動に学生たちが積極的に参加するよう奨励しました。さらに大日本体育協会を1911年に創設して、すべての国民が水泳や長距離走をはじめとするスポーツを実践できるよう手立てを整えました。東京高等師範学校出身の教育者を通して、これらは全国に広まりました。
1909年にアジアで初の国際オリンピック委員会委員になり、アジアや日本のオリンピック・ムーブメントの推進に貢献しました。1912年のストックホルム大会に、嘉納先生は団長として、東京高等師範学校地歴科の金栗四三(マラソン)と東京帝国大学の三島弥彦(短距離走)を連れて参加しました。それ以来、日本はオリンピックを通して、世界の人々とスポーツや文化の交流を行うことになりました。
嘉納先生が国際社会で示したのは、武道精神とオリンピック理念との融合であり、それによりオリンピックを真に世界的な文化にしようと努力したのでした。欧米のIOC委員たちは嘉納先生のことを「青年の真の教育者」「スポーツ教育の総合的人格者」と評しました。
嘉納先生は、近代日本において最初に留学生を受けいれた教育者です。当初は私塾(宏文学院)で受けいれましたが、1899年移行、東京高等師範学校にも受け入れました。嘉納先生の基本的な考えは、他者に善隣を尽くしてこそ、自国も自身も繁栄する、というものでした。多くの中国人留学生が高等師範学校で学び、北京大学や北京師範大学の教員はじめ、中国の学術界や教育界に巣立って行きました。嘉納が受け入れた留学生数は、宏文学院と東京投稿師範学校で約8000人にもなります。作家の魯迅、田漢や毛沢東の師となる教育者、楊昌済も宏文学院や東京高等師範学校出身でした。今日の日本は、2020年までに留学生30万人を受け入れていますが、嘉納先生の示した「自他共栄」の考えが活かされていくことでしょう。
嘉納治五郎の年譜 1860-1938
1860(万延元)年 | 12月10日 | (旧暦10月28日)兵庫県御影村(現神戸市灘区御影)に生まれる |
1870(明治3)年 | 父と上京し、漢学、書、英語を学ぶ | |
1875(明治8)年 | 14歳 | 官立外国語学校卒業後、官立開成学校入学 |
1877(明治10)年 | 16歳 | 東京大学文学部に編入 |
柔術を学び始める | ||
1881(明治14)年 | 20歳 | 東京大学文学部政治学及び理財学を卒業し,道義学及び審美学の選科入学(翌年卒業) |
1882(明治15)年 | 21歳 | 講道館柔道を創立(稲荷町永昌寺) |
1891(明治24)年 | 30歳 | 結婚する |
1893(明治26)年 | 32歳 | 高等師範学校長就任(第1期/1897年まで) |
1894(明治27)年 | 高等師範学校にて大運動会を開催し、全学生、教職員が参加 | |
高等師範学校の目的に、教員の養成に加えて、学校長の養成を加える | ||
修学年限を3年から4年に引き上げる | ||
1895(明治28)年 | 高師寄宿舎の軍隊的組織を廃止 | |
1896(明治29)年 | 学生スポーツ奨励のため「運動会」を設置 | |
清国留学生の教育を私塾にて引き受け始める | ||
1897(明治30)年 | 36歳 | 再度高等師範学校長就任(第2期/1898年まで) |
1898(明治31)年 | 37歳 | 文部省普通学務局長に就任し、全国各府県一校以上の高等女学校の設置を進める |
全学生参加の健脚競走(長距離走)行う | ||
1901(明治33)年 | 三度目の高等師範学校長就任(第3期/1920年まで) | |
「運動会」を解消して「校友会」を設置し、体育系・文科系の課外活動を奨励 | ||
1905(明治38)年 | 館山での2週間の水泳実習を予科生(新入生)全員参加とする | |
1907(明治40)年 | 外国人特別入学規程細則を定める | |
清国よりの留学生急増する | ||
東京高等師範学校において孔子祭典を復活させる | ||
1908(明治41)年 | 柔道・剣道を全学必修選択とする | |
春・秋の長距離走大会,全学生参加とする | ||
1909(明治42)年 | 48歳 | アジア初のIOC委員に就任(終身) |
1911(明治44)年 | 50歳 | 大日本体育協会を設立し初代会長に就任(1921年まで) |
1912(大正元)年 | 51歳 | 第5回オリンピック、ストックホルム大会に団長として参加 |
1915(大正4)年 | 東京高等師範学校に修学年限4年の体育科を設置 | |
1918(大正7)年 | 東京高等師範学校の大学への昇格運動本格化する | |
1919(大正8)年 | 大学昇格運動の中で,宣揚歌が作られ,嘉納校長の前で歌われる | |
1920(大正9)年 | 59歳 | 東京高等師範学校退任、嘉納校長就任時の学生数86名が、この年には724名になる |
第7回オリンピック・アントワープ大会臨席 | ||
1922(大正11)年 | 61歳 | 講道館文化会創立、「精力善用・自他共栄」の立言 |
大学への昇格案議会通過し決定(関東大震災のため開学は1929年) | ||
1929(昭和4)年 | 第10回オリンピック・ロサンゼルス大会に臨席 | |
1932(昭和7)年 | 71歳 | IOC総会の席上、永田東京市長の招待文朗読、演説 |
第11回オリンピック・ベルリン大会臨席、IOC総会にて東京開催(1940)を決定 | ||
1936(昭和11)年 | 75歳 | カイロでのIOC総会にて第12回大会を東京、冬季大会を札幌にて開催することを確認 |
1938(昭和13)年 | 77歳 | ギリシャ、アメリカを経てバンクーバーから帰国途上の船中において、肺炎のため逝去 (5月4日 77歳) |